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富川国際ファンタスティック映画祭

富川国際ファンタスティック映画祭(プチョンこくさいファンタスティックえいがさい、英称 Puchon International Fantastic Film Festival、略称 PiFan)は、毎年7月に韓国・富川市で開催される映画祭。

映画祭が生まれたきっかけ

1991年の第1回ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭でジョン・ボイドと共に審査委員を務めた映画監督イ・チャンホは、「ミョンジャ・明子・ソーニャ」を韓国と夕張で撮影、1992年の第1回ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭で上映した。その後、毎年、韓国映画界からゆうばり国際ファンタスティック映画祭の審査員の招聘をされることで、日韓の映画人交流が深まる。

1997年2月に、第8回ゆうばり国際ファンタスティック映画祭が開幕、韓国・富川市から45名の視察団が来日、8月に第1回韓国・富川国際ファンタスティック映画祭開催を発表、8月に開催される。韓国からもファンタスティック映画祭の世界への発信が始まる。

ゆうばり国際ファンタスティック映画祭

ゆうばり国際ファンタスティック映画祭(ゆうばりこくさいファンタスティックえいがさい)は、日本の北海道夕張市で開かれている映画祭である。

主な上映作品はスタート当初は、SF映画、ファンタジー映画、ホラー映画、アドベンチャー映画などとなっており、モデルとなったのは、フランスのアボリアッツ・ファンタスティック映画祭を 参考にしたが、当時は、ビデオ化すらされない国外の作品が多く、映画祭が宣伝の場になっていたが、ビデオレンタルの急成長から、近年は、4-5月にかけて 公開される話題作の発表の場と、インディーズや自主製作映画のコンペティション部門、若手作家の発表の場となっている。石狩炭田が続々と閉山し、夕張市が主要産業を石炭事業から観光事業へ転換を図る中での唯一、文化事業を成功された事例をもつ中心的な役割なども担っていた。

2006年に運営費を出していた夕張市が財政再建団体入りを表明したことに伴い、同年7月に開催補助金支出打ち切りを決定し、市運営による開催中止を発表した。その後、映画ファンなどの有志で2007年2月23日、新たに「ゆうばり応援映画祭」を開催した。映画ファンの有志と映画祭の元スタッフによる「ゆうばりファンタ」が中心となり、2008年3月19日から5日間で再スタートを切った。2008年のオープニング作品となった「僕の彼女はサイボーグ」は2003年の映画祭をきっかけとして制作された作品である。

略史

1979年、「炭鉱から観光へ」をスローガンに」夕張市長に中田鉄治が当選。テーマパーク石炭の歴史村の建設が本格化。教育委員会社会教育課長時代から積極的に映画を上映してきた経緯から、1988年に、1年間に及ぶ活動を通じて東京国際映画祭の当時のゼネラルプロデューサーである石田達郎と中田市長との間で映画祭の設立が承認される。同年10月、東京国際ファンタスティック映画祭を視察、当時の映画祭の顧問であったリオネル・シュシャンのアドバイスで映画祭開催の記者会見を札幌で開催発表。

1989年1月、フランスのアボリアッツ・ファンタスティック映画祭に 11人の使節団を送り映画祭の骨子が決定する。3月に開催の記者会見を東京で開催。10月、東京国際ファンタスティック映画祭の閉会式にて、中田市長が 「映画のある街・夕張」を映画ファンにPRした。以後、東京国際ファンタスティック映画祭のクロージングにて毎年、市長の演説が話題を呼んだ。

1990年2月、第1回映画祭が「ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭」として夕張市民会館をメイン会場として開催。スキー場に映画『エリック・ザ・バイキング』のバイキング船を設置したり、宿泊施設の不足を北海道旅客鉄道(JR北海道)の支援により寝台列車の北斗星を導入するなど、その話題は、世界に向けて発信された。

1991年2月、第2回映画祭が開催。日本で行われたイベントの中で、日経イベントから第4位のイベントとして高く評価される。同年9月に北海道旅客鉄道(JR北海道)の支援により夕張駅が完成し、映画祭の玄関となる。

1992年2月、第3回映画祭が開催。4月、フジサンケイグループ広告大賞イベント賞を受賞。夏には第1回の審査員を務めた韓国のイ・チャンホ監督が、『ミョンジャ・明子・ソーニャ』を夕張で撮影。翌年の映画祭で上映を行い話題に。

1994年2月、第5回映画祭が開催。3月、日本ファッション協会生活文化賞を受賞。

1997年2月、第8回映画祭が開催。韓国・富川市から45名の視察団が来日、8月に第1回韓国・富川国際ファンタスティック映画祭開催を発表、8月に開催される。

1998年2月、第9回映画祭が開催。同年4月に、パリで行われた「国際都市活性化技術会議 (FITAC)」で映画祭が特別功労賞を受賞。

1999年2月、第10回映画祭が開催。総合体育館を改修した「ゆうばり文化スポーツセンター」がオープン、あたらなメイン会場となった。10周年を記念し、この年のメインビジュアルは、映画祭の準備段階から参画している漫画家の永井豪によるものになった。同年、10周年を機に“冒険”を取ることを決定、翌年から現在の「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」となる。

2003年2月、第14回映画祭が開催。同月、2002年度「日本映画批評家大賞 」で特別賞を受賞。4月、映画祭の生みの親であり実行委員長をつとめてきた中田鉄治が市長を退任。同月、夕張市長選挙において後藤健二が当選、以降は2006年まで後藤が実行委員長を務める。10月、中田鉄治死去。

2006年2月、第17回映画祭が開催。6月、夕張市の定例議会において、後藤市長が事実上市の財政が破たんしていることを明らかにし、財政再建団体入 りすることを表明した。7月、映画祭実行委員会で正式に夕張市が主体となる映画祭の休止が決定。その直後より休止を惜しむ映画人、映画ファン、市民の声が 高まり、9月、それらを受けて澤田直矢ら夕張市民有志が映画祭の復活を目指す団体「ゆうばり映画祭を考える会」を立ち上げた。11月、「考える会」は市に 代わる映画祭主催団体を目指し「ゆうばりファンタ」として特定非営利法人(NPO)の認可を申請。

2007年、この年映画祭は休止したが、2月、映画ファンらの有志主催による「ゆうばり応援映画祭」を「ゆうばり文化スポーツセンター」において開催。実行委員長は北海道出身の映画評論家品田雄吉だった。7月、NPOとなった「ゆうばりファンタ」が翌年の開催を発表。

2008年3月、第18回目として映画祭がゆうばり市民会館をメイン会場として復活開催。市民主導による夕張市再生の象徴として話題となる。

映画祭のキャラクターは、漫画家の石ノ森章太郎によるデザインによるもので、シネマとタイガーを合わせたシネガーと呼称している。

話題の映画

映画祭がきっかけで生まれた作品

  • 1991年審査員で参加した監督の映画監督イ・チャンホが韓国と夕張で撮影し「ミョンジャ・明子・ソーニャ」を撮影、1992年の映画祭で上映された。
  • 1993年(第4回)のヤング・ファンタスティック・グランプリ部門で初監督作品「レザボア・ドッグス」(1991年)が南俊子賞を受賞したクエンティン・タランティーノは、ゲストとして招かれた際にこの映画祭を非常に気に入り、自身の監督作品「キル・ビル Vol.1」(2003年)において、このゆうばり映画祭へのオマージュから、登場人物の一人、栗山千明演じる女子高生の殺し屋に「GOGO夕張」という役名を与えた。この時にホテルで「パルプ・フィクション」の脚本を執筆。のちにハニー・バニーを演じたアマンダ・プラマーは、念願の夕張に2006年にトビー・フーパー監督と共にゲスト参加する。
  • 1994年オフシアターコンペで参加した前島誠二郎監督が、西村喜廣らと共に夕張で撮影、「レイジング★ユーバリ」を撮影、これがきっかけでシネマサポーターズが誕生、1999年フォーラムシアターとして上映された。これがのちの若手クリエイターたちの発表の場として定着する。
  • 2000年の映画祭で「バンパイアハンターD」のプロデューサーとして訪れた山本又一朗は毎年訪れることで、2001年、「VERSUS―ヴァーサス―」で参加した北村龍平と出逢い、のちに「あずみ」を共に制作することになった。「あずみ2」に栗山千明を起用したきっかけは、2004年に山本又一朗が審査委員として参加し、映画祭内で行われた『キル・ビル』スペシャルナイト!ゴーゴー夕張 inゆうばりに参加した栗山千明にアプローチしたと言われている。
  • 2001年、94年の審査員として参加した台湾のホウ・シャオシェン監督が映画祭期間中にスー・チー主演で「ミレニアム・マンボ」を撮影、2002年の映画祭で上映された。のちに「珈琲時光」の撮影も夕張で行われたが公開版では収録されず、DVDの特典映像に収録された。理由は、1シーンだけが撮影できなかったためとされている。
  • 2006年の映画祭に岡本みね子と共に参加した、米国在住で俳優・監督の光武蔵人は、この年の映画祭にゲスト参加していたアマンダ・プラマーと出逢い、これをきっかけに自作の最新作「サムライアベンジャー/復讐剣 盲狼」にアマンダ・プラマーがゲスト出演することとなった。当作品は2009年の映画祭で上映される。
  • 2008年の映画祭でオープニングを飾った「僕の彼女はサイボーグ」は、03年に山本又一朗プロデューサーとクァク・ジェヨン監督が共に審査員を務めたことがきっかけで生まれた作品。
  • 1996年のオフシアター部門で上映され審査員特別賞を受賞した西村喜廣監督の「限界人口係数」をもとに「東京残酷警察」が生まれた。カット割や共通するシーンがかなりある。

トピックス

  • 1992年:宝石デザイナーのパスカル・モラビトが結婚式をあげる
  • 1995年:阪神の震災チャリティコンサートをジョルジュ・ムスタキ、栗原小巻らで行われる
  • 1997年:島田陽子が市民の手により映画祭期間中に結婚式をあげる
  • 1997年:韓国・富川市から視察団が参加、富川国際ファンタスティック映画祭の記者発表を行う。同年8月に韓国で開催。日韓映画人交流フォーラムなどが開催され、日本映画解禁の道すじを作った。
  • 1998年:パリで開催された「FITAC=Festival International des techniques d'Animaion de la Cite(国際都市活性化技術会議)」で特別栄誉賞を受賞、映画祭などの文化事業を評価しての受賞となる。
  • 2003年:国内最大級の映画資料館、郷愁の丘 シネマのバラードがオープン(現:郷愁の丘夕張キネマ館)
  • 2008年:スカパー!の支援でコンペグランプリ監督の次回作を映画祭が支援。第1回目作品は井上都紀の「不惑のアダージョ」を製作し、2010年ロッテルダム国際映画祭のコンペティションにノミネートされる。
  • 2009年:第2回目作品は入江悠の「SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」をアミューズ、鈍牛倶楽部と共同製作。
  • 2012年:第3回目作品はオ・ヨンドゥの「探偵ヨンゴン 義手の銃を持つ男」をキングレコード、前年審査委員長だった林海象と共同製作。

トリビア

  • 1993年「レザボアドックス」で参加したクエンティン・タランティーノが滞在中にホテルで執筆していたシナリオがカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した「パルプフィクション」である。
  • 2007年ゆうばり応援映画祭に参加した井口昇監督が夕張へ向かう映画祭専用列車の中で書いていたシナリオが「片腕マシンガール」である。
  • 2004年喰始製作総指揮の映画「冬の幽霊たち」をプレミア上映。ワハハ本舗の芸人たちが社員旅行として大挙して参加した。夜は夕張の各居酒屋などでネタを披露してまわった。

ディープコアナイト

名称の由来は、映画祭事務局のあった建物の前にある青年婦人会館を利用して、映画祭期間中は名称を「みんなの家」(現在は、閉鎖中)と称して様々な トークイベントや音楽イベント、上映などを開催していたが、イベントが比較的に深夜に及ぶことも多く、いつしかミッドナイトで行うイベントが“ディープコ アナイト”と呼ばれるようになる。2001年にみんなの家で行われたトークイベントでは、そこで何が行われたのが参加者だけの秘密になり、かなり深い内容 が語られていることで話題になった。現在ではイベントそのものが正式にそう呼称されるようになった。 2001年のトークイベントの参加者は、監督の中田圭、及川中と俳優の加藤雅也。 あまりにもマニアックすぎるゆえに、参加者がついていけないこともしばし。 近年では、様々なゲストを招いて、濃すぎるトークを繰り広げていることで、常連も増え、深夜の2時、3時からトーク参戦する俳優や監督も多い。 2010年以降は、公式には開催されなかった。

フォアキャスト部門(2010年までフォーラムシアター)

  • 黎明期(1993 - 2001)
    現特定非営利活動法人ゆうばりファンタの代表理事澤田などの市民有志が夕張青年会議所主催で“ゆうばりファンタランド”を設立、1993年から映画祭に参加、年間を通じて「ファンタランド通信」の発行やシネマ・ワークショップのサポート、1998年から夕張で映画制作される作品の支援(ゆうばりシネマサポーターズ)を行った。
    1999年より夕張に参加した監督たちの作品を自主上映する場を「フォーラムシアター」と呼称し、2002年、正式に市民企画の部門として扱われることになった。
  • 定着期(2002 - 2003)
    これまで様々な企画上映をしてきたが、若手監督の新作映画を扱うことが多くなり、前年にプレゼンテーション企画として発表された2作品、『0&1』(中田圭監督)と『多摩川少女戦争/g・a・n・g』(及川中監督)がプレミア上映された。以後、新作企画発表の場と新作上映の場が定着している。03年には、作品本数とゲストが数が増え、現在の商工会議所2Fに加えシネサロンの2会場に増えた。
  • 暴走エスカレート期(2004 - 2006)
    さらにそのエスカレート振りが04年には、頂点に達し、石井隆監督の『花と蛇』の上映や映画制作にまで着手し、西村喜廣監督とタッグを組み夕張オールロケの『スピーカーマン THE BOO』をメイン会場であるホテルシューパロで特別上映、青年婦人会館まで加え4会場で行われ、映画祭本体をかなり侵食。
    上映希望作品の増加にともない出品条件がこの時期にほぼ固まる。ミニシアター系単館公開作品やVシネ、また商業監督を目指すクリエイターや若手俳 優陣たちが自主的に上映企画する場として定着。上映作品は一般に未公開であり、監督やスタッフ・キャストが必ず舞台挨拶などを自分たちで行うことが条件と なった。06年までは映画祭側から用意されるものはほぼ会場設備などのみ、監督たちは参加者はすべて自費であった。それでも100名を越える映画人たちが 進んで参加を希望し、映画祭の場で交流を深め、次回作への足がかりを摑んでいった。
    05年は、みんなの家の閉鎖に伴い、会場を郷愁の丘ミュージアム内のミニシアターへ移転したが、ゲストの数が増えすぎたため、使用は1度限りになった。
    06年は、前年度の反省から会場を商工会議所だけに限定したが、ベテラン俳優・諏訪太朗に焦点をあてた特集上映をするなど、作品の質をあげた。特集上映のために諏訪太朗主演で制作された作品もあった。ゲストの数は衰えることは無かった。
  • 応援映画祭(2007)
    07年は、映画祭の休止にも関わらず、応援映画祭の中でも自主上映企画としてお馴染みの映画人に加え、常連となった作家であり監督の戸梶圭太や乙一、桜井亜美などの人気作家の監督作品など多彩ぶりを発揮した。
  • 復活期(2008 - )
    08年からは上映作品がスカパー!で映画祭と同時放映されるという映画祭初の試みが開始された。ゲストも高橋洋、沖島勲、阿藤快などさらに豪華に。上映される作品のレベルも高くなった。
    09年は商工会議所をメインに、市民会館3階の特設会場でも一部作品が上映された。田口清隆監督『長髪大怪獣ゲハラ』の怪獣アトラクションショー や、スクリーンの映像を背景に役者の生芝居をシンクロさせた演劇イベントなど企画内容もさらに進化した。映画監督の蔭山周や柴田剛が中心となって企画した 音楽イベント「ゆうばりロックフェスティバル」は映画祭初の音楽フェスとなった。あがた森魚、あらかじめ決められた恋人たちなど出演者も豪華であった。
    11年からは「フォアキャスト部門」と改名した。
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